The postmodern has come.

宗教二世問題に対して微温的な態度をとる人たちについて

宗教の常識と社会の常識

宗教2世をめぐる問題は、フィクションとフィクションの界面で引き裂かれる自我の問題と言える。社会のマジョリティからすれば、いわゆる「一般常識」にあたる物語のほうが現実で、信仰者からすればその宗教の物語こそが現実ということになる。「傷つく宗教2世」は、一般社会のほうがフィクションだと思って生きてきたが、もはやなじみの宗教的世界観こそがフィクションだと「知っている」。でも、刷り込まれた感性はなかなか拭い去れるものではなく、また新しい物語への順応もなかなかできず、一般社会のフィクションを異邦人として生きていくことになる。それが「生きづらさ」。

しかし、一般社会の価値観を構成する物語と、あるマイノリティ集団が提供する物語と、どちらが「真実」であるかはアプリオリには決められない。一般の常識をひっくり返す科学的発見が、一人の人間によって成し遂げられることがあるように、社会のマジョリティの信奉する物語だってそれが正統で現実的な科学的真実であるということはない。それだってフィクションである。

日本で信じられている価値観が、必ずしもほかの国や社会で通用しないことは現代人であればだれでもわかることだろう。そのとき、日本の価値観と、ある別の国の価値観と、どちらが正しくてどちらが間違っているということは基本的にない。ただ違うものが互いに別体として存在するというだけのことだ。

ところが、現代社会における宗教のコミュニティはさらに大きな社会に包含されて成立しているので、そこに生きる人間は2つのフィクションに折り合いをつけなくてはならない。中世であれば、宗教的フィクションが社会的フィクションを包摂していたので、宗教を信じることにこの手のアイデンティティ・クライシスは発生しようがなかった。

「どっちもどっち」を超えて

「どっちもどっち」で誰かが「悪い」わけではないという、宗教2世をめぐる文化相対主義的な論理は以上のようなものだ。ただ、私自身はこのような相対主義的地平に立たない。

私が思うに、ゴータマ・ブッダ以来の仏教は、人間と世界にまつわるあらゆる世界観をフィクションと認識し、その上で動かしようのない現実において人間がより良く、幸福に生き、死んでいくためにはどうすればよいかという指針とプラクティスを、メタフィクション的に構築していく営みであった。仏教ではフィクションのことを方便と呼ぶ。

この宇宙において、あらゆる営みに本来的な意味などない。生命は化学的反応の結果として宇宙の片隅で意味もなく生じたが、子孫を残そうとする利己的な遺伝子だけが子孫を残してきたから、その表現型である私たち生物は、生き残ろう、殖えようとすることに喜びを感じ、死に向かうことに苦痛を感じる。そのようにプログラミングされているという事実は変えようがない。

でも、本質的にそれはフィクションだ。本当は、ただ物質がこの宇宙に適用された自然科学的法則に従ってそこに存在しているに過ぎない(その自然科学的法則だって、それがそのようでなくてはならない必然性はどこにもない)。ただ、我々が生きている限り逃れ得ないフィクションなのだから、フィクションと認識した上でそれにとらわれず、程よい距離を持って、生まれた以上は楽しく生きようよ、というのがゴータマ・ブッダに始まる仏教思想の骨子だった。

私はそうした仏教のスタンスは自明的に正しいと考える。であるから、仏教者を名乗る宗教家及び教団は、フィクションを用いつつもフィクションに溺れない、人間の幸福を最大化するための冷静で透徹された科学的視点と思考が求められるはずだと私は「信じる」。フィクションのためのフィクションではない、現実に生きる人間の人生を「よくする」ために工夫されたフィクションこそが「優れたフィクション」であると判断する。

判断しないことの罪

人間を不幸にするフィクションを目の前にして、「それも人間にとって大切なフィクションだから」と日和る態度を私は非難する。「フィクションに優劣などない」とメタ・価値判断を行う偽物のやさしさを私は受けつけない。一部の人を幸せにしても、多くの人を不幸にするフィクションは、アップデートされるか、それが無理なら消滅さるべきだ。人間にとって有害無用のものだからだ。それを非難できない者、特にフィクションの内部で育ちながら自身への検討を避ける者に、私は人間としての良心を見出すことはできない。

無論、善悪、正誤を判断し、表現することはとてつもなくタフな行為だ。一概に言えることではないし、判断が間違っていることはたくさんあるだろう。それでも我々は各人の責任において発せられる言葉を重ねながら進んでいくしかない。そのリスクの引き受けと覚悟こそが、本当の優しさ、慈悲であると思う。

(ところで、信仰によって促進されるむち打ちなどの児童虐待になると、それはフィクションがどうの社会との関連がどうのという領域を超えて、現実に生命に害を与えてるのだから、その背後にフィクションがあろうとなかろうとアプリオリに有害である。アプリオリに決められるかどうかのボーダーラインは極めてあいまいではあっても、明らかにラインを越えている事象というものはある。)