The postmodern has come.

帰るところがないということ

心を預ける場所

今日、創価高校33期の同窓会(という名の会合)が同高校で開催されていたらしい。らしい、というのは、まだ私とつながりのある同期が同窓会の様子を送ってくるからだ。しかし。そんな情報に触れても、自分で驚くくらい感情が動かない。その同期にどう返事するべきか考えることだけがわずらわしい。「そんなものを送ってくるな!」というほど強い拒否感ももうないし、かといって「ありがとうみんな元気だといいね」というのも嘘だ。

創価学会の信仰をやめることを決めて7年が過ぎた。信仰をやめるといっても、生まれてから30年以上も3世として過ごした教団の世界だ。帰りたいけど帰れないふるさと、くらいの郷愁はしばらくはあった。私自身にも、創価学会はやめても日蓮の教えを奉じるのをやめたわけではない、という矜持のようなものがまだあった。しかし7年である。私はすっかり創価学会員としての自分を失ってしまったように思う。

加えて、必ずしも創価学会の信仰だけが原因ではないのだけれど、私は自分の生まれた家族と縁を切って10年になる。親族の葬式くらいでしか顔を見ることがない。生まれ故郷にも同じだけ帰っていない。私の両親は、小資産家だった父方の祖父が亡くなった途端、母を亡くしたために相続権があった私のいとこたちに相続放棄を強要し、私の生家を売り飛ばし、思い出深かった祖父宅を取り壊して自分たちの家を建てた。だから、私には帰りたいと思う場所が物理的にも精神的にも存在しない。

世界にたたずむ私

帰る場所、というのはいろんな物語でもテーマになることがあるけれど、ただそこに帰って安心する場所、というだけではなく、「私」自身を定義する存在、「私とは何者か」を語りかけてくれるアイデンティティのベースだ。信仰に自分の人生を見出していた人間がそれを捨てるとき、同時にそれを失うことになるのが、彼らを躊躇させる最も大きな要因だといっていい。

自分が何者かわからないと、あらゆる言葉を失う。人間の言葉や思考は、自分の立ち位置があるから生れ出てくるものであるから、どこをベースに事物を眺めていいのかわからないと、何をどう考えて、言葉にすればいいのかわからない。同窓会の様子を知らされる私のように。

私は子供のころから生まれ故郷があまり好きではなかった。粗野で、文化がなくて、知性がない。そういうふうに思っていた。そして、私は家族のこともあまり好きではなかった。家族旅行のたびに怒鳴りあいをする両親が嫌だった。ちょっとしたことでヒステリックに叫びながら暴力をふるう母が嫌だった。「ガキはバカだから殴らないとわからない」と言って、鼻血が出るのも構わずに私を殴り続ける父が嫌いだった。そんな父が中学教諭として評価されているのも腹立たしかった。そんな家庭に生まれて、うまく社会に適応できない自分も好きではなかった。

だから、創価学会を故郷にしようとしたのだと思う。正しい信仰者であることだけが、私を肯定してくれる。

創価高校の、寮生であることが誇らしかった。故郷たるべき村のメインストリームにのれたと思っていた。でも私はそこでもあまりうまくやれなくて、そして教育機関としての創価学園からのサポートはなにもなかった。創価学会は、私を愛さなかった。でも、私は学園を、学会を愛さなければならないと信じていた。

不惑

「四十にして惑わず」とはよくいったものだけれども、不惑を目前にして、私はまだ惑っている。ただ、信仰をやめたときほどの不安感はない。不安なだけの状況が何年も続くと、不安に思うこと自体がばかばかしくなる。

でも、職場の同僚に話しかけられても、旧友に会ってみても、私はいつも「語るべき言葉がない」と思う。私から、その人に語りかけたいことがない。そのことにいつも戸惑う。私に好意を向けてくれるから、もらった好意くらいは返さないといけないと思うのだけど、それは私の心が望んだことではないから、とても疲れる。

やってみればわかることもあるのではないかと、他者とのコミュニケーションに身を投じてみても、やっぱり何もしっくりとこない。そんな状態で、30代が過ぎていこうとしている。