The postmodern has come.

私はいかなる人物であるか

初めて注目を浴びている

先日アップロードした『公明党国会議員と文通費』は思いのほか多くの方に読んでいただいております。私の文章をこんなにもたくさんの人に読んでいただくことは初めての経験で、若干浮ついている今日この頃です。

そんななか、「立憲民進党総裁」(@sou_sai)さんというTwitterユーザーの方が長文の感想を書いてくださいました。自作の長文に丁寧に目を通していただき、感想をものしていただくという経験そのものが初めてです。素直に感動しております。ありがとうございました。

批評への応答

さて、本記事では「立憲民進党総裁」さん(以下「総裁さん」と略させていただきます)からいただいたご指摘に、応答いたします。総裁さんの私へのご指摘は大きく以下の2点であると思います。

  1. ジッタのような発達障害的プロフィールを持つ人間は、共同体に溶け込めず、独善性ゆえに孤立しがちであり、また孤立するがゆえに独善性を増していくという自家中毒に陥っている傾向があり、その主張を信用できない。
  2. 本気で自分の所属する共同体を改善しようとする責任を負わず、安全圏からの批判となっており、他者の信頼を得られないため実際的な共同体の改善に結びついていない。

私の衝動性について

まずひとつめのご指摘については、まさにそのとおりであり、私本人も私の文章が独善性に陥っていることを危惧しています。総裁さんは私の自己紹介記事を含む、ほとんどの記事に目を通していただいているとお見受けします。私が本サイトに長文の自己紹介を置いているのは、私が比較的経済的には恵まれた家庭で育ち、発達障害傾向を持つ、ともすると怠惰な人間(2浪2留の親不孝者です)であることを考慮して各記事を解釈していただきたいからです。

公明党の秘書を「優秀な秘書」と「ポンコツ秘書」の二つに分けるとするなら、私は確実に後者に入りました。自意識過剰ですが、もし創価学会や公明党が私の批判にカウンターを与えるとするならば、「協調性がなく独善的で時間にルーズ、約束を忘れることもしばしばであり、彼を首にしたのは職務怠慢以外の理由ではない」ときっと主張するでしょう。首になった理由はそれではないと私は思っていますが、このように言われたとしても、私個人の評価についてあえて不当であるとは思いません。

創価学会幹部と衝突を繰り返す私に、山本も難儀したことでしょう。その点については、正直言って申し訳なさすらあります。それでも私がこうやって文章を書くのは、そうであったとしても、私には表現しなければならないことがある、と私が感じているからです。


ただ人間は、どこまでいっても究極的には主観を外れることはできず、主観を全く離れて言葉を紡ぐことはできません。そして私の信念や信仰について語る際に、それを客観できると思うことはむしろ危険なことです。ですから、ぜひ読者の皆様の主観(私にとっての客観)に、私がどういう人間であるかというバイアスを加味したうえで記事を読んでいただきたいと思います。また自己紹介にすら、私のバイアスがかかっていることはさらに疑っていただきたいのです。私が本ブログの諸記事で伝えたいのは、私のふるまいの正当性ではないからです。疑っても疑っても信じざるを得ないものが残ったとき、それを私の文章から掬い上げていただきたいと思います。

総裁さんは、私の自己紹介を読んで、眉に唾を付けて読むべきブログではないか、と感じ、文章にしてくださいました。その意味で、私の文章を読み、意図を酌んでくださった第一の読者です。

安全圏からの攻撃

さて、ふたつめのご指摘は、独善的で無責任な批判は、どこまでいっても賛同者を得ることができない無意味な叫びである、ということでした。こちらに対しては二つの時点からお答えしたいと思います。

まず、自己紹介にある石田の安保法案説明会以降、私は公明党内で自分の地歩を固めることをあきらめました。石田の放言のような姿勢での安全保障にかかわる憲法解釈の変更への賛同は私にとって、それほど大きな意味を持つものでした。つまり、これを看過してこの組織でこれ以上禄を食むことは、私にとって許せないことでした。主観といえば主観の問題です。極端なたとえをするならば、あなたの会社が、毎日人を殺すことで利益を得ており、あなたの給料がそこから払われている場合、それでもあなたは会社組織の平穏を優先して、日常を過ごしますか? あるいはただ黙ってそこを去りますか? というほどのインパクトが私にはありました。

つぎに、現時点での私は、創価学会公明党批判によって自分が何らかの祭り上げられる対象には決してなりたくないと考えています。それであるから、例えば私がインターネットで仲間を集めて、創価学会公明党を改善するための何らかの運動体を作りたいということは全くないのです。あえていうならば、国家公務員だったものとして、できうる限り国民に、そこにいた秘書として何を感じたか、を含むすべての情報をつまびらかにする義務があると感じています。現時点では、それ以上でも以下でもありません。あとは、主権者たる読者の皆様が決めることです。

そして、これら二つの時点での私の思考に、発達障害の傾向が影響を与えていることは、きっと間違いないと思います。

さいごに

再度になりますが、私の長文を読んでいただき、また長文の批判的感想を寄せていただくということは、私にとって待ち望んだ初めての経験であり、心の底からありがたく思っています。私は幼いころから文筆で何らかの影響を世界に残したいと夢見ていましたが、ささやかながらかなった形です。できれば、こんな宗教や政治の批判ではなく、文章の魅力で人を惹きつけられるとよいのですが。