The postmodern has come.

医師資格を持っていてもカルトな創価学会員

創価学園生との対話

筆者について』に書いてあるように、私は生まれも育ちも創価なわけですが、公明党国会議員の秘書になったことをきっかけに、遅まきながらこの集団はヤバいと思って離れました。あえてアンチ活動をしたいわけではないのですが、私はいわゆるリベラル派なので、いまの自公政権に与するようなことはしたくないと思っています。

そこで、創価学園の同級生が参加しているLINEのグループに、次期総選挙の投票先の再考を促すような書き込みをときたま行っていました。ひょっとして一人くらい志を同じくする友だちがいないかな、という希望もあってのことですが、残念ながら創価学園を卒業するようなどっぷりの会員には、いまさら自分の生き方を再検討するインセンティブはないようです。

なかでも衝撃を受けたのは、医師資格を持つ同期からの返信でした。いわく、「自分たちには自分の生活があるし、政治のこと考えろって急に言われても困惑するよね。それに公明党が気に食わないならお前が創価学会やめればいいじゃないか。他に仏道修行する場はないと思うよ」。

思想性なき宗教

こういう反応をもらうたびに私が驚くのは、「俺たちは政治に詳しくないんだから、ギャーギャー責めるな」という彼らの無責任さです。もし、学会員でも何でもない、政治運動なんかしたこともない人たちからこのような反応があったのなら全く理解できます。しかし彼らは、選挙となると必死で全国の知り合いに電話し、家庭訪問し、公明党の候補への投票を依頼して回っているのです。

そしてこの医師からの返信で最も度し難いのは、「ほかに仏道修行する場はない」という一言です。どうでもよくないですか? 私は、いまの自公政権の在り方は社会にとって害を与えている。だから、支持者として厳しい態度で挑むべきだ、と主張しているのです。教義的な議論は全くしていません。これに対して、「いや、自公政権は社会に良い影響を与えている」と反論されるなら、たとえ意見を異にするといえども私は尊重します。しかし、「公明党が社会にどういう影響を与えていようが関係ない。我々の仏道修行であるのだから、文句があるお前が離れればいいだけ」と彼はいうのです。

(ちなみに私はすでに創価学会を事実上離れていますが、離れたら離れたで、「お前は仏道修行から逃げたのだから、今さら文句を言うな」と言われることは目に見えています)。

私からすれば、「我々の仏道修行」よりも社会をよくすることのほうが大切です。少なくとも政治活動においてはそうでなくてはならないでしょう。「我々の仏道修行」のために、国民を不幸にすることがあるならば、何のための「仏道修行」でしょうか。

オウムと変わらない学会員のメンタル

創価学園は、入学するのにそれなりの偏差値が必要な学校です。私は、偏差値が人格や人生を決定するとは全く考えていませんが、しかし、知性とは少なくとも相関関係があると思って、一縷の期待を私の同期にかけていたのです。よりにもよって東京医科歯科大学を卒業し、医師国家試験に合格するほどの知能がある彼からこのような返答があるとは思ってもいませんでした。知能と知性に必ずしも関連性がないことを、思い知った次第です。

もうこうなると、修行と称してサリンプラントを建設し、地下鉄にばらまいたオウム真理教の精神性と変わるところがありません。社会にどんな影響を及ぼすか知らないが、組織から与えられた指令を遂行することが自分の宗教的ステージを上昇させるための最重要事項であると信じて疑わないのです。

創価学会がオウムに比べると穏健的なのは、現実世界に利権をもっているから、失うものがあるから極端な反社会的行動に出ないのだと思いますが、この件についてはまた改めて記事にしたいと思っています。