The postmodern has come.

『枝野ビジョン』のピント外れ感

野党支持者として『枝野ビジョン』を読む

もうすぐ総選挙ですね。私は日本に健全な政権交代が定着することを願っているので、次回の総選挙では野党に投票したいと考えています。政策も知らずに投票するわけにもいかないので、野党第一党である立憲民主党の枝野氏の政策提案書である『枝野ビジョン 支えあう日本』を読みました。しかしこれがどうにも、あまりもろ手を挙げて枝野首相の誕生を熱望するような、そういう内容ではないのです。

「まじめ」な枝野氏

一読して思うに、枝野氏は人格としてはまじめで信頼できる人なのだろうと思います。しかし政治家として評価しようとすると、そのまじめさゆえの視野の狭さ、融通の利かなさを指摘せざるを得ません。

まず冒頭から、枝野氏は日本社会の本質を「多神教と農耕社会」と定義します。八百万の神を信仰してきた日本であるから寛容と多様性が保たれ、また農耕社会であったから支えあいと助け合いが発達した。であるから、日本に適した社会増は「支えあう日本」であるというのですが、政策の根幹である目指す社会像の根拠が文字通りの神話であることに驚きました。

本来多神教、農耕社会的な支えあいを担ってきた共同体や家庭が、時代の変化によって役目を果たさなくなってきた。だから、国家がそれに代わる仕組みを提供することで、日本人本来の支えあいの社会を取り戻していく、というのが枝野氏の政策の軸です。

神話ベースの政治哲学

「日本は多神教だから寛容」、「農耕社会だから和を重んじる」というのはあまりにベタかつ一面的な視点すぎやしないでしょうか。農耕が争いの少ない社会をもたらす、というのは(人口に膾炙した説ではありますが)あまりに飛躍した議論です。たとえば鎌倉時代から安土桃山時代にかけては日本人同士の騒乱が絶えませんでしたし、日本人の和や寛容性は閉ざされた多様性のない、外部に不寛容な社会であるからこそ成立しているとも言えます。また、歴史的に日本の産業構造が、決して農業に頼っていたのではないことは、日本史学者が指摘するところです。

なによりも、現実に生活する国民にとって「日本人の本質論」がどれほどの重要性を持つでしょうか。そんなことよりも、いまの国家としての日本の行き詰まり、一人一人の国民の苦しみがどのような社会構造によってもたらされていて、どのような新しい社会原理によって諸問題を改善しようとするのか、それをこそ論じなければならないはずです。

しかしながら、以降、本書の議論はふわふわとした「支えあいの社会」という枝野氏の概念によってドライブされていきます。本書にあげられる具体的な政策は以下の通りです。

それぞれの政策については、私は支持します。政府の再分配機能を強化し、格差を縮小させることで社会の安定性を確保するということだと思います。しかし政策の実行には国家のリソースを消費するのですから、どのように国民を納得させ、どのように予算を確保するのかが重要になります。特に再配分ということになれば、富裕層の負担が増えることが予想されるのですから、相応のメリットを提示しなければなりません。

得られる利益は理想のイデアか

ところが枝野氏は、先に述べたような「日本伝統の支えあい社会」の「魅力」という曖昧な理想的価値観そのものがメリットであると説明するのです。一次産業の所得を安定させる、戸別所得補償制度の説明においてそれは顕著です。「経済に限らない農山漁村の多元的価値は、すべての人に恩恵をもたらす」(p.233)ので、「一次産業の支援において『産業』政策に重点を置くことをやめる」(p.232)。それらの数字にならない多元的価値を生んでいる「対価として、彼らの生活を維持し、(中略)収入を補填することも必要である」(p.233)。

農漁業従事者への所得補償はヨーロッパではメジャーな政策ですが、それらは伝統的農家を守るというよりももっと戦略的です。国家が一次産業へ投資することで、生産物の価格が下がり、国内需要を後押しするので食料の自給率が上昇します。そして、安定した生産物は輸出においても価格競争面で有利であり、外貨獲得の原資となります。普通の政府産業支援と変わるところはありません。今よりも力強い経済成長が見込める政策だと言い得るのです。

そのほかの政策においても、例えば教育への投資は将来税収となって帰ってくる係数がほかの政策投資分野に比べて大きいこと、中流家庭の安定が消費行動を生み経済を活性化させることなど、経済的有利性があることをもっと説明するべきなのに、枝野氏はなぜか「あるべき価値観を実現するための痛みを分かち合う政策」として説明するのです。

プライマリーバランスという思考の枠

これでは、経済不安にあえぐ現代日本で、広く支持を得ることは難しいでしょう。枝野氏は近代の終焉を説き、物質的豊かさを追い求める社会から心理的安全性の高い社会への変革を主張します(pp.130-136)が、それは経済的成長への幾何かのあきらめをニュアンスに含んでおり、経済的停滞こそが社会不安の大きな原因となっている世相において説得力を持ちません。心理的安全性は、今日より豊かな明日が来るという希望がなければ獲得しえないものですし、そもそも豊かさの追求と心理的安全性の高い、支えあいの社会は矛盾する概念ではありません。

枝野氏のこういった経済成長へのあきらめは、財源負担の議論にも影を落としており、支えあいの社会を実現するためには、今以上の増税がいずれは必要である、その痛みは支えあいの社会という価値観を実現するために甘受さるべきものである、と国民に痛みを強いる主張となっています。経済的な苦痛の代わりに、文化的精神的な癒しを与えようというわけです。

それであるから、本書においても経済政策についての議論は低調なままに終わっています。「財政規律を重視している。将来にツケを残すことになる財政赤字の拡大は、できるだけ早期に止めなければならない」(p.218)と述べた個所を見逃すことはできません。枝野氏は、「悪夢の民主党政権」と揶揄されることを恐れるあまり、現実的であろうとして、大々的な財政出動を公約することを避けているのではないでしょうか。

財政出動をすることもできない、かといって枝野氏の目指すべき「支えあいの社会」が経済的成長をもたらすとも思えない。板挟みの思考の結果、なんとも頼りない政策提言となっているように思われます。国民に経済負担をお願いする。しかし大々的な経済成長は期待できない。そしてもたらされるものは支えあいの温かい社会である……。ディストピア感すら漂っていて、あまり筋のよい未来予想図ではありません。筋の悪さを飲み込ませるために、「日本人神話」を引っ張り出してきている印象です。

私は、彼の言う「支えあいの社会」のための政策は力強い経済成長にいくらでもつなげられると思います。そこにこそ国家の政治手腕が問われるのであり、より具体的な政策研究が求められる領域です。またこのような経済的停滞期においてプライマリーバランスを重視することも、タコが自分の足を食べるようなもので、筋がよいことではありません。

枝野氏、立憲民主党においては、どうか、もっと国民が希望を持てる、力強いビジョンを示してくれることを野党支持者として願っています。