The postmodern has come.

遠山清彦元衆院議員の関連先が家宅捜索された件に寄せて

元キャバクラ議員が経営するコンサルに家宅捜索

8月4日、コロナ禍にキャバクラで遊んでいたことで顰蹙を買い、当初議員を続ける意思を見せながらどうしようもなくなって辞任に追い込まれたことで有名な、公明党元衆院議員の遠山清彦が経営するコンサルタント会社に家宅捜索が入りました。政治資金の寄付を受けていた企業に融資の仲介を行い、違法な報酬を得ていた疑いがあるとのことです。どうでもいいことですが、遠山は私の高校及び大学院の先輩にあたります。前々から感じていましたが、実に不名誉なことです。

本件が報道されるにあたって、私の創価学園の同期からは「これまでの安保や銀座クラブの問題とは次元が違う」との発言がありましたが、少なくとも6年間は遠山ウォッチャーをしている私に言わせれば、とんでもない思い違いをした感想であるといわざるを得ません。なぜならば、彼は何年も前から創価学会の主義主張を裏切り続けており、本来の創価学会の価値観からすれば到底許されないような振る舞いを平気で行ってきたからです。

名誉会長の池田が反戦平和の砦と呼び、その戦争被害に寄り添い続けることを主張してきた沖縄では、米軍基地の固定化に反対するオール沖縄の反戦主義を小ばかにする発言をSNSでくりかえし、あまつさえ県知事選においてデニー候補にかかわるデマサイトを率先して拡散して謝罪に追い込まれました。さらに、再軍備を可能にし、基本的人権を削ることを狙う、日本会議の改憲集会に率先して参加してしっぽを振りました。集会では櫻井よしこの機嫌取りのために「憲法を変えるために婦人部を説得することなど難しいことではない」旨の発言をしており、支持者の信託によって得た地位を使って、むしろ大衆を煽動しようとする、恐るべきデマゴーグの様相を呈していました。

遠山は宗教政党の政治家としてあまりにも危険であり、本件をもって遠山の政治生命が完全に断たれることを、私は心の底から願っています。

それでも支援者は無謬と信じる創価学会会員

しかしながら、これで創価学会員は公明党の支持をやめるかとおもえば、さにあらず。NHKの最新の世論調査では誤差の範囲ながらむしろ微増しており、もはや意地になっているのではないかとすら思えます。ある婦人会員のSNSにおける発言を引用します(申し訳ありませんが出典は伏せさせていただきます)。

テレビでは公明党の議員さんが「自分たちはそういうことはしていないが、ある人の通報で警察が動いたのであれば、協力をしていく」と話していたので、又はめられたのだと思いました。後で、間違いでしたという報道はされないので、公明党だって、悪いことしているという認識が皆さんに植え付けられたと思いますよ。昔はありもしない事を週刊誌に書かれて、迷惑しましたよね。必ず都議選勝利に妬みの人々の仕掛けだと思います。真実は1つですから、待ちましょう。それにしても今年の夏は10時間題目を何回もあげて、魔を蹴散らします。決着が着くまで、我々が動けないようにしておく、戦略でしょうね。

やはり私も、これは「自民党の策略」を感じます。公明党が都議選で大勝利したので、公明党が離れて行くかも知れないと言う恐れがあり、今のうちに嫌がらせをして、イメージダウンをはかろうといていると思います。

まともな感覚をしていれば、「宗教って怖いな」という感想にしかならないのですが、これが現在の創価学会の実情です。彼らの中では、創価学会・公明党という組織は聖なる正義の組織であり、時にこうやって出てくる裏切り者は、どれだけ過去に自分が絶賛し、支持し、票を誘導して当選させた議員であろうと、悪事をなした個人の問題なのです。そして、公明党に不利な報道は事実であっても悪であり、それをもって支持の可否を変えることは「聖なる団結」への冒涜となるのです。

「我々」の「団結」を大切にして「我々」がよって立つ社会や未来を背負う世代に損害を与えることについて、池田が説いてきた仏法や師弟の道に合致するのかどうか、考える人はいないのでしょうか。情を見て利益を考えない者、利益を見て正義を考えない者、そういうのを愚か者というと、牧口も戸田も言っています。たとえ知らなかったとしても、味方を政界に送り込むという利益の前に、正義をないがしろにした自分たちの無責任を恥じることはないのでしょうか。

国を誤らせるデマゴーグを放置していた私たち

遠山は、沖縄の党組織トップとしてデニーにかかわるデマを選挙戦で率先して流し、反戦主義者を馬鹿にしました。党の憲法調査会事務局長として軍国主義者が主催する改憲集会にはじめて出席し、しっぽを振りました。そんな遠山を処分するどころか出世街道に乗せていたのが公明党であり信濃町です。今回の不正容疑には、財務副大臣として関わっていました。決して、遠山清彦一人が狂っていたのではありません。私たちはみな共犯です。

彼は、コンサルティング的な、インフルエンサー的なハッタリ言論にたけているところがあります。その力を使い、保守勢力に迎合し、自分が一旗あげられれば良いと考えていた節があります。そして、そんな遠山を放置するどころが出世させていた公明党信濃町もまた、創価学会公明党が国粋主義に傾いていくことを、自民党を中心とした保守勢力に食い込み、利益を得られるならばどんな手段だろうといたしかたなしと考えていると想定せざるを得ません。実現すべき理想も思想もない宗教政党など、ギャグにもなりません。今の創価学会公明党は、信者の宗教的情念を利用して、国家権力と一体化し、組織の拡大と存続をめざす、かつての国家神道や中世カトリック教会のような危険な運動体になりつつあります。


創価学会初代会長の牧口は、全体主義に染まる戦中の日本で、治安維持法により無念の死を遂げたとされています。今公明党創立者である池田の往年の平和主義、反国家主義の主張を思うならば、また牧口の仇のために国家権力を監視せよと説いた戸田の政治進出への思いを考えるならば、創価学会会員は日本国の主権者としてどう行動するべきなのか、よく考えてほしいと願います。

私たちが有権者としてできることは、おかしなことをした政治家、政党には票を入れないことです。もし、何をやっても得票が変わらなければ、彼らが自らの在り方に危機感を覚えることはないでしょう。絶対的な権力は絶対的に腐敗します。支持者と政治家、政党との間には、いつでも政権交代が発生しうるという緊張感こそが健全な民主主義のために必要なのです。真に公明党を思えばこそ、厳しくペナルティを与えるべきです。

今、自民党を中心として、与党は軍事的拡張、人権に対する国家の優越をめざす憲法改正の下準備を進めています。もし次の衆院選で与党と維新合わせて3分の2以上の議席を獲るようなことがあれば、改憲は現実的なスケジュールとなります。そして公明党は、前回の安保法と同じく実効性のない文言の追加と修正をもって、自らの主義を貫いたと強弁するでしょう。しかしいくら強弁したところで現実が変わってしまえば意味のないことです。絶対に許してはいけないことだと私は思います。

仏教者の本分

釈迦は「依法不依人」、「法燈明自燈明」と遺言しました。意味は、人ではなく法を頼りとせよ、自分の外にあるものではなく、自分をともしびとせよ、ということです。「私の良心」に基づいて、行動し、変えていく。だれの指示でもなく、誰の命令でもなく、道理を学び、正しさを貫こうとする、それが仏教徒の旨であり、日蓮が出世の本懐としたのも、名もない農民たちが社会にたいして諦め、唯唯諾諾としたがうのではなく、自ら立ち上がって正義を実現しようとした事件でした。

仏性とは人間の良心のことです。誰かに与えられるものではなく、皆の心にある正しさを思う心です。師弟の道は、良心を育てるための道しるべであって、自分を疑い、大いなるものに同一化するためのドグマではありません。自分は馬鹿で何も知らないから、という無明の心と戦い、自分こそ世界で一番偉大な指導者だと、自分を信じることこそが日蓮の道です。何が正しくて、何が間違っているか、自分で考え、行動し、たった一人で全ての人々に幸福を与えようとすることです。釈迦の遺言にも、私の教えは杖のようなもので、ひとり立ちしたならいずれ不要になる。その時は潔く捨てなさいとあります。

日蓮の教え通り、仏性を信じ抜ける「賢者」が、まだ創価学会にいることを期待しています。