The postmodern has come.

創価学会と憲法改正 第3 戸田城聖はどうして核兵器使用者を死刑にせよといったか

このシリーズ『創価学会と憲法改正』では、主に創価学会の会員、また元会員を対象に、創価学会の思想性と憲法改正問題をいかに関連付け、考えるべきか、また、自公政権の改憲がどうして、いかに危険なものであるか、なるべくわかりやすいように解説していきます。

私の人物像については、当ブログの『著者について』をご参照ください。そのうえで、私の文章にかかるバイアスについて考慮しながら、当記事群を読まれるとよいでしょう。

戸田の言葉に宿る牧口思想

二代会長の戸田城聖にとって、創価学会の再興は思想犯として獄死した初代会長牧口の仇討であったと創価学会の会員は聞かされています。実際、戸田の遺した言葉を確認してみると、牧口の価値論がベースになっていると思われる発言がそこここに見られます。

創価学会の会員にとって戸田の遺した言葉で最も大切なものといわれているものの一つに『原水爆禁止宣言』があります。その中で、戸田はこう主張しました。

もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。

なぜかならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります。

それを、この人間社会、たとえ一国が原子爆弾を使って勝ったとしても、勝者でも、それを使用したものは、ことごとく死刑にされねばならんということを、私は主張するものであります。

核兵器なき世界への連帯

素直に考えれば、価値判断の主体は一人一人の人間であると主張する牧口価値論や、すべての人に仏性が備わり等しく尊い、と説く日蓮教学とは矛盾する発言です。どうして、核兵器は死刑にも値するような無条件の悪なのでしょうか。

価値の相対性理論

先に述べた牧口価値論の美、利、善の三段階の視座には続きがあります。よく相対主義に陥った人が「正義なんて人や立場によって違うのだから、正義を掲げる人間など信用できない」というようなことを書いていることがあります。牧口が説明するのはまさにこのような矛盾についてです。

国と国との戦争は、それぞれの国の内部にいる人間からすれば、「私の共同体」の存続にかかわることなので、善の価値を持つ「正義の戦争」になります。敵国は、もちろん「悪の国」です。しかし、視座を国家という主体においてみれば、国家にとっては「自ら」の存続発展のために戦争するのですから、「利益」を追求していることになります。そして、国家が集まって形作られる「国際社会」から見てみれば、社会秩序を不安定にし、構成員に損害を与えかねないものですから、戦争行為そのものが「悪」です。

そういう意味で、絶対善、絶対正義というものはありません。視点をどこに置くかによって、「誰にとっての利益なのか」が変わってしまうからです。

しかし牧口は、絶対善は定義することができるといいます。それは、すべての存在を幸福にする社会の在り方のことです。牧口価値論の「社会」の定義はカバーする範囲が広く、人類社会を飛び越え、地球に存在するすべての生命をも包括する「最大社会」を想定します。

その最大社会において、「最大多数の最大幸福」を実現すること、それが「絶対善」だというのです。一人が不幸でもいけない、一国が不幸でもいけない、一種が不幸でもいけない。誰かが不幸である社会は、紛争やバランス崩壊を生み、結局全体を不幸にするからです。牧口の想定する理想社会は、すべての生命主体にとっての利益なのですから、どこに視点をおいてもプラスの価値をもたらします。たしかに「絶対善」と呼んで差し支えないと思います。

核兵器の「絶対性」

翻って核兵器です。核戦争以前の「普通の戦争」は、まだ議論の余地があります。真に自衛のための戦争もあるでしょうし、勝った場合には戦勝国に利益をもたらすこともあります。誰かにとっての「善」であり得るのですから、まだ「絶対悪」とは呼べません。

ところが、核戦争は、一度始まったら人類社会を飛び越え、地球全体の生命を危機に陥れます。すべての存在にとって「害」(⇔利)をもたらす行為が核戦争です。どこに視点を置いても、負の価値しかもたらしません。だから核兵器は絶対悪であり、絶対悪にふさわしい報酬は、同じく絶対性のある極刑、死刑しかありません。だから、使用者は死刑に処されてもやむを得ないのです。

核兵器廃絶宣言を発表した戸田城聖には、牧口が実現しようとした理想社会への重大な敵として現れた核兵器に対する怒りがあったのではないかと思います。