The postmodern has come.

創価学会と憲法改正 第4 国連と安全保障

このシリーズ『創価学会と憲法改正』では、主に創価学会の会員、また元会員を対象に、創価学会の思想性と憲法改正問題をいかに関連付け、考えるべきか、また、自公政権の改憲がどうして、いかに危険なものであるか、なるべくわかりやすいように解説していきます。

私の人物像については、当ブログの『著者について』をご参照ください。そのうえで、私の文章にかかるバイアスについて考慮しながら、当記事群を読まれるとよいでしょう。

国家同士の社会契約

このシリーズの第1回で、社会契約論について説明しましたが、国家も一つの生命主体であり、国家の集まりは一つの社会である、と牧口常三郎が考えたように、国家同士の闘争状態を終わらせるために、個人と同じように国家の社会契約を行えばいいのではと考えた人たちがいます。

その一人がカントです。『永遠平和のために』という著書の中で、カントは「国家というものは戦争の準備をせずにはいられないが、戦争の準備が準備で終わったためしはない」というようなことを述べています。まさに「万国の万国に対する闘争状態」です。

これを終わらせるために、各国家は戦力を国際組織に預け、無法国家にはその国際組織がペナルティを与えることで、国家が戦争の準備を行う必要がないようにするべきだとカントは主張しました。これは、現在の国連につながる最も初期の提案です。この考え方は、社会集団が安全を守るものなので、「集団安全保障」と呼ばれます(「集団的自衛権」とは違うものです。後ほど解説)。

国連の理想と迷走

第二次大戦を止められなかった国際連盟への反省として、国際連合は当初軍事力を持ち、紛争を裁定する組織として構想されました。しかし冷戦がはじまり、構成国間の不信が高まったことで、国連憲章に定義されている常設の「国連軍」は結成されることはありませんでした。

朝鮮戦争で西側として戦った「国連多国籍軍」や、PKOを実施する「国連平和維持軍」は、本来の「国連軍」ではありません。これらは必要に応じて臨時に結成される「実力組織」であり、国連が主体性をもって紛争に介入するためのものではありません。

ウクライナ領土問題、ウイグル虐殺、パレスチナ紛争、ミャンマーの白色テロ、これらに対して国連が無力に見えるのは、国連軍のような国連の決定を各国に強制するための手段がないのも大きな理由の一つです。

しかし、現実的に考えて、国家以上の存在を作り、そこに世界最強の軍隊を預けるということが簡単ではないことは誰でもわかると思います。まず各国間に強固な信頼がないとできることではありません。敵対的な勢力に国連軍を乗っ取られたらどうしようと不安になるのは自然なことです。

池田大作の国連主義

それでも、池田大作の名前で発表された文章では、ことあるごとに国連の強化が主張されてきました。牧口の「大善生活」を実践する立場からすれば、とにかく自分の視座を上へ上へと上げて、すべての存在の自由と幸福を願うことが期待されるのですから、理屈から言って当然の帰結です。カントが国内社会ではなく、国際社会の正義を考えたように、牧口価値論もできるだけ高次の社会における善を考えることを要請しています。小共同体にとってだけの善は、包括共同体にとって悪でありえます。包括共同体の維持発展を無視して、小共同体は存続できません。

憲法9条によって軍隊の保持と戦争行為が禁じられた日本であるからこそ、本来は国連の集団安全保障実現のために国際社会に働きかける説得力と現実性があったはずです。あるいは、自衛隊を国連軍として率先して国連に預けるような道だってあったと思います。

私が思うに、池田の国連主義は理想主義でもお花畑でも何でもありません。世界に絶対善を現出させるために最も現実的で手っ取り早い道、それが国連の強化なのです。創価学会公明党の使命には国連強化のために国際社会に働きかけ続けることが絶対に含まれるはずです。

集団的自衛権をたやすく容認した公明党・創価学会

先にもちょっと言及しましたが、自公政権による解釈改憲が部分的に解禁した集団的自衛権は、この国連集団安全保障とは本来的に逆行する概念です。それでいて、集団的自衛権は国連憲章に定義されているものでもあります。一体どういうことか。

国連が結成されて、小国が参加するときにそれらの小国が心配したことは、平和のために交戦権を否定された国連体制下で、自分が攻撃された場合のことです。もし米国とソ連が喧嘩しているために国連軍が動けなかったならば、いったい誰が我が国を守ってくれるのか。実際、国連は結成直後から米ソ冷戦で機能不全に陥るのですから、この心配は杞憂ではありませんでした。

そこで、小国は、小国同士で連合を組んで、他国から攻められた時には共同して侵略に抵抗する権利、集団的自衛権を求めました。建前としては、国連軍が到着するまで、しかたなく集団的自衛権で対処する、という必要悪的存在となっています。

つまるところ、国連への不信の結晶が集団的自衛権であり、自衛のためといえども、戦争の準備は必ず実際の戦争になるとカントが言い切ったように、国際社会を不安定にする要素のひとつです。例えるならば、政府が信用できないので、町内会ごとに部隊を結成しているような状態です。そんな社会がどんな社会になるのかは、簡単に想像できると思います。

もちろん、安全保障は今すぐ自衛隊を解散し、米軍を追放すれば済むような、簡単な話ではありません。でも、創価学会、公明党が目指すべき道はどこにあったのか、目指すべき方向はどっちだったのか。解釈改憲の決定時においてたとえすでに後戻りできない状況であったとしても、それはそのような状況に日本が、創価学会が、公明党が追い込まれてしまったことが公明党結成以来の私たちの恥であり、敗北であったと、そう感じて反省することができなければ、私たちはどこまでも万人闘争状態へと転げ落ちていくことでしょう。