The postmodern has come.

創価学会と憲法改正 第2 牧口価値論と自由

このシリーズ『創価学会と憲法改正』では、主に創価学会の会員、また元会員を対象に、創価学会の思想性と憲法改正問題をいかに関連付け、考えるべきか、また、自公政権の改憲がどうして、いかに危険なものであるか、なるべくわかりやすいように解説していきます。

私の人物像については、当ブログの『著者について』をご参照ください。そのうえで、私の文章にかかるバイアスについて考慮しながら、当記事群を読まれるとよいでしょう。

価値論とは

創価学会初代会長の牧口常三郎は、創価学会の創立に先んじて、「価値論」について論じた著作を上梓していました。創価学会の会員であれば、牧口の「価値論」が、一般的な「真善美」じゃなくて「利美善」を論じているという話は多少聞いたことがあると思います。価値論は、ドイツの哲学者カントから始まる哲学の一分野で、人間がどうしようもなく惹かれるもの=価値とはいったい何であるかについて論じる哲学です。

詳しく話し出すと本一冊ほどが必要になるので、かいつまんで説明します。カント学派は、人間が追い求めるものには三種類あって、真=まことであるもの、善=ただしくあるもの、美=うつくしいもの、がそれらであると分析しました。それぞれ科学者、政治家、芸術家が典型例になると思います(ちなみに哲学は諸学の王なので哲学者はすべてを追求します)。

ところが、牧口は、真実であるかどうかは人間にとって価値ではないと考えました。偽物であっても心惹かれるもの、ありますよね。もし本当に「真」が人間の欲求の対象であれば、虚構のものに人間は心動かされないはずです。虚構の物語、虚構の人間関係、虚構の愛、たとえ虚構であっても、人間はどうしようもなく心惹かれ、時には宝物にすらなります。また逆に、つまらない真実というものもあります。空気が酸素と二酸化炭素と窒素の混合気体であるという真実は、たいていの場合価値を持ちません。

ということは、真実であるか、虚構であるかは「価値」とはいえません。「人間が無条件に惹かれてしまうもの」が「価値」の定義だからです。

真実は価値ではない

いったい価値とはなんであるか。牧口によれば、それは対象物が自分の生命活動にとってどのように寄与するか、という期待の大小なのです。わかりやすく誰もが心惹かれてしまうものの代表に「お金」があります。いうまでもなく「お金」には価値があります。なぜならば、お金があれば命ながらえ、生活を豊かにし、好きなものを手に入れることができるからです。

このお金の価値を何と呼ぶべきか。善も美も、お金に宿る価値としては。いまいち不適当です。そこで、牧口は哲学で扱うべき新たな価値として「利」を導入します。それまでの哲学では、そんな文字通り「現金」な議論をするなんて低俗なことだとみなされている節がありました。しかし、よきにつけあしきにつけ人は「それ」によって心を動かされ、行動を変えてしまう。であるならば、科学の祖たる哲学は、それを分析し、論じなくてはなりません(ちなみに、牧口は経済=利の価値を論じるものとしてマルクスの資本論に言及していたりします)。

そして、牧口によれば、この「利」こそがすべての価値の基本となる価値なのです。どういうことか。牧口は、人間がどういうときに「善」と「美」を感じるのか、分析しました。このような分析の仕方を、「本質看取」と呼ぶ人もいます。


人間が価値判断を行う視座には三つの段階があります。精神的存在としての自分、現実に一人の人間として存在する個人としての自分、社会的存在としての自分です。このうち、精神的存在としての自分を満たすものが「美」の価値、個人的存在を満たすものが「利」、社会的存在を満たすものが「善」です。

心も栄養がなくては死んでしまうといわれるように、嫌いなものを遠ざけ、好きなものをとりいれていないと、精神的な意味での生命が維持できません。「利」の価値はいわずもがな、稼がないと生活はできません。「善」の価値は、自分が所属するコミュニティの維持発展にとってどのように影響するか、で我々は判断を(無意識に)しています。

殺人がなぜ悪(⇔善)なのか、ほっておいたら社会が崩壊するからです(殺人は害(⇔利)でもあります)。特攻隊の行動を正義と感じる人がなぜいるのか、日本国という共同体のために犠牲になった人たちだからです。そのほか、自分の胸に手を当てて考えてみてください。私たちが、あれは美しい、あれは儲かる、あれは正義だ、と感じるとき、どうしてそう感じて「しまった」のか。牧口の分析は的確だと思います。

こう考えてみれば、いずれも「私」という生命が生き残り、発展するために有用とおもわれるものについて私たちは心惹かれるように「なっている」。精神も共同体も、私たちが生きるためにどうしても必要なものです。であるから、「利」の価値こそがすべての基本であり、利美善の三つすべてが満たされたとき、人間は不足なく幸福を感じるように「なっている」のです。

ここまでの議論は、「そのようにあるべき」という道徳や宗教ではありません。牧口は、あくまで科学的態度で議論を進めています。

善き人生は誰が決めるか

利と美と善、すべての人間にすべての価値を十全に保証する、幸福な世の中にするためにどうすればいいのか。牧口にとってその手段が教育であり、日蓮教学だったのです(池田大作は、『人間革命』の冒頭でそういう牧口の姿勢を「哲学的臭味」と書いてちょっと批判しています)。

話が大分遠いところまで来ましたが、この牧口価値論の肝は何かというと、さっきから「自分」「自分」と書いているように、価値を判断し、定義するのは一人一人の人間だということです。そして、すべての価値は一人の人間の生命を保全し、はぐくむものであるから「価値」であるということです。

国家が掲げる正義、組織が掲げる正義、すべての正義は、個人の幸福を侵すものであってはなりません。牧口の提唱した「大善生活」は、ひとりひとりが社会にとって「善き」存在であろうと、自分で考え、行動することによって社会に「価値を創造」し、社会正義を実現しようとするものであって、社会正義のために個人の生活を矯正しようとするものではありません。

だから、牧口は宗門と争い、国家権力に立ち向かい、最後に死んでしまったのです。牧口自身の「良心」を侵そうとするものを絶対に許せなかったのだと思います。そのような初代会長の信念が、創価学会の原点であったことを創価学会の会員は忘れてはいけないと思います。