The postmodern has come.

創価学会と憲法改正 第1 自由と民主主義について

シリーズをはじめるに当たって

はじめまして。私の名前はジッタと申します。ちょっと現代思想や哲学、平和学を勉強した創価学会の活動家です。インターネット上で積極的に発言を行っている元創価学会員は珍しくありませんが、公明党の国会議員の公設秘書をしていたことがあるという点が私の特徴かと思います。

今年は衆議院の任期切れに伴う総選挙が行われますが、私が一番危惧しているのは、総選挙を前にして自公政権が憲法改正にむかって前のめりに外堀を埋めようとしていることです。もし次回の選挙で与党及び維新の会の議席の合計が3分の2を超えるようなことがあれば、きっと「国民の信託を得た」として改正の発議を行うことでしょう。

憲法は国民の総意によって決められるものですから、憲法を変えることそのものが悪いわけではありません。しかし、自民党が進めようとしている憲法改正は国民から権利を奪い、国家の統制が個人の幸福に優先する憲法に代えようとするものです。創価学会、公明党が普段主張する思想信条を鑑みれば、彼ら(あるいは我々)は自民党主導の改憲には断固反対するべきと考えます。しかし、憲法9条にかかわる2014年の解釈改憲に見られるように、公明党は自民党との連立を優先し、創価学会もまたそれを安直に追認します。

このシリーズ『創価学会と憲法改正』では、主に創価学会の会員、また元会員を対象に、創価学会の思想性と憲法改正問題をいかに関連付け、考えるべきか、また、自公政権の改憲がどうして、いかに危険なものであるか、なるべくわかりやすいように解説していきます。

私の人物像については、当ブログの『著者について』をご参照ください。そのうえで、私の文章にかかるバイアスについて考慮しながら、当記事群を読まれるとよいでしょう。

自由と幸福

今の民主主義社会がどういうものとして成り立っているかというと、まず大前提としてすべての人間には自分のやりたいことをやりたいようにする権利、自由権が最初からある、という仮定から始まります。人によって幸福の具体的な形は違うから、人は自ら幸福になろうとする以外に幸福になる方法はないからです。

もし自分の所属する社会や、他人にこれが「正しい」幸福だ、「正しい」生き方だ、と自分の好みと違うものを押し付けられたら、どれだけ不幸か、わかると思います。

それが行き着くと、「正しい」社会のために「間違った」宗教や「間違った」人種を犠牲にしたり、殺戮したりするような政治が横行するようになります。一般に国家主義と呼ばれる状態で、ナチスや、思想犯として初代会長牧口恒三郎を獄死させ、沖縄の無辜の人民を捨て駒的に見殺しにした戦前の日本が歴史上の実例です。

個人の幸福に先んじて、国家や社会の幸福がある、という考え方は、少なくともマイノリティにとっては恐怖でしかないのです。また、国家社会のために人間を殺す戦争は、だから絶対に許してはいけないのです。国家のために人間があるのではなく、人間のために国家があるべきです。

このような歴史的反省を経て、近代社会では人の「自由」は何よりも大切なものとして扱わなくてはならないということになりました。

国家の存在理由

では、国家や社会は何のために存在するのか? これは各人の自由を調整する為です。人は生まれながらに無限に自由なので、人を傷つけたり、殺したりすることがあるかもしれません。しかし、そのような行為は他者の自由を奪う行為であり、また他者が自分の自由を奪う恐れを常にはらんでいることになります。

みんなが自分の自由を守るため、武装したり、守りを固めたり、膨大なコストをかける必要が出てきます。それは、とても「自由」とは言えません。他者からの襲撃を恐れる必要がなければ、人はもっと自分のしたいことをできるのに、時間も金も他者との争いのために取られてしまう。これを「万人の万人に対する闘争」といいます。

万人闘争状態はあまりにつらいので、人間は自分の「暴力をふるう自由」を統治機構にゆだねることにしました。警察や軍隊がこれに当たります。自分が武装しなくても、みんなが自分の暴力をふるう権利を政府に預け、自分たちはそれを放棄することで、みんなが他人に襲われる心配なく生活できるようになる。自由の部分的放棄によって、自由がむしろ拡大するのです。このことによって、国家の存在は正当化されます。これが有名なルソーの「社会契約論」です。

もう一度大切なことは、「国家の安寧」はそれを構成する個人の幸福のために存在するのであって、個人の幸福を国家が侵害するときは、社会契約違反であり、存在意義を失うということです。

自由の調整弁

「万人の万人に対する闘争」までいかなくても、例えば「隣に高い建物を建てられた結果、一日中自分の家が日陰になって困る!」というように、個人の自由がぶつかりあうとき、双方の自由が程よくバランスをとれるように法律を作ったりするのが政府の仕事です。この場合は家を建てる人の自由と、その隣に住み続けたい人の自由ですね。

このような作業を繰り返して、トータルとして社会に属する全個人の幸福の総量が、最も大きい状態をめざす。これが「最大多数の最大幸福」です。マイノリティを切り捨てていいというわけではありません。誰一人として一方的に不幸であってはいけない、という考え方です。

さてここでもう一度一番大切なことを確認したいと思います。幸福は、他者によって定義されるものではありません。全体の在り方に合わせない個人を矯正しようとするのではなく、個人の在り方に合わせて全体の在り方を変えていくのが近代国家であり、近代国家の運営に必要とされるのが、多様な意見を政治に反映させる民主主義という政治の在り方であるのです。