The postmodern has come.

創価学会と憲法改正 第5 「自由」は悪人の存在を許すのか ~「悪を為す」ということ①

このシリーズ『創価学会と憲法改正』では、主に創価学会の会員、また元会員を対象に、創価学会の思想性と憲法改正問題をいかに関連付け、考えるべきか、また、自公政権の改憲がどうして、いかに危険なものであるか、なるべくわかりやすいように解説していきます。

私の人物像については、当ブログの『著者について』をご参照ください。そのうえで、私の文章にかかるバイアスについて考慮しながら、当記事群を読まれるとよいでしょう。

自由と悪人

ここまで、人間の幸福にとって自由が欠かすべかざる必須条件であることを説明してきました。私の説明を読みながら、では「悪人」にはどう対処するべきなのか、疑問を持った人もいるかもしれません。国家や社会が個人の自由に干渉するべきでないのであれば、悪人の自由もまた保証されるべきなのか。

あるいは、人は(自分は)放っておけば悪を為してしまうのだから、自由を制限し、倫理や道徳、宗教によって教導されなければならないと考えている人もいるかもしれません。現在の日本で、自民党に代表される「保守」と呼ばれる人たちは、国家権力が教育や強制を行うことによって社会道徳を維持し、倫理に反する悪人を罰するべきだと往々にして考えています。ひょっとして、「創価教育」も国家主義に対抗するための「創価道徳」を児童生徒に植え付けることを目的としているのでしょうか。

「悪人」は存在しない

結論から言うと、牧口はそのような考え方を否定しています。日蓮教学を含む仏教もまた、何らかの外的ルールや権力を使って道徳的人間を育成することが、人間にとって良いことだとは考えません。

牧口は、『創価教育学体系』のなかで、「わざわざ進んで悪を為そうとする人間はいない。いるとしたら精神病であり、医学的治療の対象としなければならない」と断言しています。どういうことかというと、先に価値について説明したように、まるで昆虫が光に向かって飛んでいくように、人間は無条件に美・利・善に向かうようにできています。美・利・善の反対は醜・害・悪ですが、わざわざこれらの「反価値」に向かっていく意味はありません。みにくいもの、きずつけるもの、わるいもの、欲しい人はいますか?

もし醜・害・悪に向かって進んでいく人間がこの世に存在することが確認されたなら、牧口の価値論は根本から成り立たないことになります。「価値」の定義は「無条件に人間が惹かれるもの」でしたね。「惹かれてない人がいるじゃないか!」となるわけです。

つまり、「悪人」はこの世に存在しないのです。よかったですね…とはならないのが現実の難しいところです。人間は必ず自分の持っている価値を最大化しようとするはずなのに、世の中には醜・害・悪を実行して平気であるように見える人間がいる。なぜなのか。牧口はもちろんこれについても説明します。

人が悪を為すとき

まず悪を為してしまうパターンの一つは、ほかの価値とのバランスです。人間は、美・利・善の三つがそろわないと、どこかしら不幸を感じてしまうのですが、人によってはこの美・利・善のいずれを重視するか、に差があります。芸術家は生活や社会性を犠牲にしてでも絵を描き続けようとするかもしれません。また、「悪」と自分で分かっていても、生活のため「利」を得なくてはならないとなれば、「利」のために「悪」を為すこともあるでしょう。

こちらのパターンは、対処は比較的簡単です。美・利・善のバランスを整えてやればいいのです。たとえば、国による福祉政策などは「利」を保証することで人間が「善」を犠牲にしなくて済む効果があるでしょう。

深刻なのはもう一つのパターンです。それは、人間が始まって以来の難題です。あるいは、仏教が2500年前から解き明かし、解決しようとしてきた根本命題です。すなわち、「人は、どうして幸福になろうとして不幸になるのか」ということです。

それは、認識が間違っているからです。かつての創価学会では仏法のことを説明するのに、よく飛行機と物理学のたとえを使っていました。空を飛ぼうとしてイカロスのように翼の模造品を腕にまとってバサバサしても人間は空を飛べません。しかし、ライト兄弟は鳥の翼をよく観察して、ついに飛行機を発明しました。鳥人間とライト兄弟の違いは、自然法則を正しく認識しているかどうかです。

「法」は認識の対象

仏教に説かれる「法」とは、道徳や倫理や正義ではありません。「万有引力の法則」というときの「法」と同じ意味の言葉です。この世界の成り立ち、自然法則の集大成が仏法であり、それ以上でも以下でもありません(ちなみに「法」に基づいて世界に立ち現れる現象が「色」。「色」を認識する作用が「心」です。「色心不二」とは、現象とそれを認識する人間の意識が、裏表の関係にあることを言います)。

仏教が法を重視するのは、自由に――自分のやりたいことをやりたいように――生きるために、まず世界のことを知らなければ、望んだ結果を得ることはできないからです。魚を釣るために山に登ったり、猿を捕まえに海に潜ったりするようでは、結局自分が求めたものを得られない。

牧口もまた同じように説明します。善を行おうとして悪を為し、利を得ようとして害を受け、美を求めて醜を得る。すべて、「正しい認識」を持たなかったためです。ここでいう「正しい」は、道徳倫理的な「正しい」ではありません。水は摂氏100度で沸騰する、地球は平面でなく球体、卵子が受精して胚になる、というような「科学的正しさ」です。

不幸になろうとして結婚する人はいないのに、結婚したカップルの三分の一が離婚する。離婚が必ずしも不幸とは言いませんが、結婚して幸福になれなかったのは、当初の認識が間違っていたからです。相手の人格を見誤ったのか、自分の性質を思い間違っていたのか、経済的側面を軽視しすぎたのか、それはわかりません。けれども、たとえ後知恵であったとしても、「認識が間違っていた」ことだけは間違いないのです。儲けようとして商売を起こし、大損をする経営者もそうです。愛を押し付けて、子供を不幸にする親もそうでしょう。

同じように、悪を為す人はたいてい善を為そうとしながら悪を為しているのです。大日本帝国を悲惨な敗北に導いた日本の指導者層が、心の底からの悪人であったでしょうか。牧口を獄死させた特高警察は、普段の生活でも暴力的だったでしょうか。普通に考えれば、彼らは彼らなりに正義のことを考えて行動していたのでしょう。ただ認識が間違っていたために、数えきれない人間を不幸のどん底に陥れただけなのです。利益を得ようとして、損害を受けたのです。そして、たとえ彼らが善意であったとしても、その罪は結果に応じて背負われるべきです。

このように、あなたが良かれと思ってなすことでも、「善かれ」とおもう善の心が必ず社会に善をもたらすことを保証はしないのです。

牧口創価教育の目指したもの

牧口は、国家によって行われる「道徳教育」に懐疑的でした。ある時代、ある地域において適切だった振る舞いや考え方を、固定化された価値観として子供たちに植え付けることは、無意味であるどころか、この変化し行く世界では有害ですらあるのです。

ただ、子供たちが自分の人生において、自分の力で、正しいやり方で、自分の求める価値を創造 していくことができるように、この世界について正しい認識を(カント流にいえば「真」を)得る力を授けることが、教育の最大の目的だと述べています。教育が十分に行われたならば、自ら悪を為し、不幸になる子供はいなくなります。これが、「創価教育」の本質です。ありていに言えば、教育に道徳よりも科学を、ということです。「創価教育」の「創価」は「創価学会」の「創価」ではありません。

あえて言うならば、創価学会の「創価」は、「創価教育」の「創価」です。学校教育では、所詮人格のすべてにわたって教育を施すことは困難です。「宗教」という営みだけが、人間の生活すべてについて人間を教導することができる。それが、教育者の勉強会だった創価教育学会が宗教団体へと変わっていったことの意味です。

池田の指針として創価学園に掲げられている「学は光」とは、正しい認識(価値観ではない!)を学び、持つ者だけが、自分と世界を幸福に導くことができるとの意味です。私たちの決定と行動は、この世界に大きな影響を与えます。正しい認識を持つために、学んでいますか? 認識をする前に、評価をしていませんか? 自分に問い続けることが、私たちに課せられた義務であり、権利だと思います。