The postmodern has come.

コロナ禍でも選挙運動はする創価学会

迫る都議選に脱法行為で盛り上がる創価学会

緊急事態宣言下の東京に、都議選が近づいてきています。私が観察しているSNSでは、女性部(旧婦人部)の皆さんが、日々「今日は東京の〇〇区の友人に会ってきました」、「××市の友人に投票をお願いしてきました」と、都議選の事前活動の成果を誇っています。創価学会は表立って選挙運動での東京入りを広報してはいませんが、組織末端には確実に東京支援の指令が下っています。

また、東京在住の創価学会会員の弁護士が、「東京にお越しになる皆さん、私の住んでいる△△市をよろしくお願いします」と書き込み、外部の知人に「このコロナ禍に何かイベントがあるのですか?」とコメントされれば「イベントなどはありませんが、いい季節なので気を付けて観光にお越しくださいという意味です」と詭弁でとぼける有様です。

日本の法律では、公示前の選挙運動、また選挙区の家庭を無差別に訪問して投票依頼をする戸別訪問は禁じられています。それなのになぜ創価学会会員が続々と東京に集まって堂々と選挙運動をしているのかというと、まったくの知り合いでない家を無差別に訪問するということはしていないからです。「たまたま」東京に住んでいる友人のところに遊びに行き、「たまたま」政治の話をしているので、事前選挙運動にも、戸別訪問にも当たらない、というロジックです。

選挙活動が呼ぶモラル崩壊

たしかに、選挙運動としてどこからがセーフでどこからがアウトか、という線引きは大変デリケートなものですから、国民の自由な政治活動を妨げないために、できるかぎり寛容であるべきだと思います。また、戸別訪問については欧米諸国で禁じられていないように、日本でも自由化するべきだと考えています。しかし、選挙直前に限って、組織の命令に従って、選挙区の家庭を訪問し、実質的に特定の候補への投票を依頼するような行為は端的に言って脱法行為であり、「違法でなければ何してもよい」というモラル観を創価学会会員に植え付けています。

実際の投票行動においても、違法とならないためのノウハウは組織内に積み上げられています。たとえば、知人と一緒に投票所に入り、候補者の名前を書いた紙を渡したり、口頭で指示をしたりすると即違法行為となりますが、投票所の前まで知人を車で連れ出し、その車内で候補者の名前を書く練習をさせる、ということは学会員としての基本的なたしなみです。時には、重度の知的障碍者や認知症の高齢者にもそれをさせ、「弱者の政治参加を促進した」とかえって誇りにしたりします。

このコロナ禍に選挙のためにわざわざ会いに来るなど、普通の感覚を持っていればかえって創価学会や公明党への信頼を失うことを危惧すると思うのですが、彼らには迷いがありません。SNSには、「人としておかしいと思われるようなことをするべきではない。ただでさえ遠山清彦のような不祥事を起こした議員が公明党への信頼を落としてめているのに」と発言する良心的な会員も見られますが、「遠山議員のことはあくまで遠山個人の責任のこと。私たちは公明党の勝利のために戦うのみ」という反論に押し流されます。自らが支援する政治家の起こした結果について、自分たちが責任を負うという感覚は全くないことが分かります。

そんな有様ですから、全国から創価学会会員が緊急事態宣言下の東京に集まることで、どういう結果になることか、そんなことは彼らの知ったことではないのです。

「見返り」がないからこそ強い創価学会の結束

どうして創価学会会員がこんなに熱心に違法すれすれの選挙活動を繰り広げるのか、疑問に思う方も多いと思います。なにか金銭的、実益的な見返りがあるのではないかと疑われることも多いのですが、これは本当にないのです。創価学会の現場では、「日本の汚れ切った政治の世界に、創価学会の信心の精神を共有する仲間を送り込むことで、政治に善性がもたらされ、会員には功徳がある」と、選挙運動にしり込みする会員を鼓舞する幹部がよくいます。

彼らにとっては公明党の議員が実際に何をしているか、創価学会が公明党を使って何をしているか、ということはどうでもよく、とにかく創価学会員の候補を政界に送り込むことで、功徳を得ることが第一の目的なのです。遠山清彦のような「堕落議員」は、「純粋な創価学会会員の真心」を裏切った恩知らずであり、支援した学会員は「被害者」なので責任を感じることはありません。選挙戦に水を差されて迷惑だ、くらいに考えています。遠山個人がどうあれ、また公明党の政策がどうあれ、創価学会という勢力が政界に浸透すること、そのために自分のリソースを喜捨したことによって功徳が得られるのです。

これは実際よくできたシステムだと思います。「政治に無関心だが、選挙運動には熱心な支援者」、これほど権力者にとって理想的な集票マシーンがあるでしょうか。「金の切れ目が縁の切れ目」とはよくいいますが、創価学会会員は「金」で動いているわけではないので、他陣営による切り崩しも大変難しいのです。

「祭り」としての効果しかない「F」獲得活動

創価学会では、学会員ではない友人に投票依頼をすることを、「Friend票」略して「F」を獲る、といいます。今東京都内で繰り広げられている戸別訪問作戦はまさに「F獲り」活動なのですが、実はこのF票、実際には全く投票につながっていないことは公明党や創価学会の執行部では常識です。普通に考えて、創価学会会員の知り合いから「公明党に入れてくれ」と頼まれて本当に投票する人など、皆無とは言いませんが少数派です。それこそ何らかの見返りがあるわけではありませんから。


ではどうして創価学会がF作戦を続けているのかというと、学会外部の票を獲得する以上に、会内の票をまとめ上げる力があるからです。外部の票を集める前に、創価学会は当然組織内部の有権者の数を把握し、公明党への投票を促します。しかし運動として内側に向かうだけでは、運動体としての盛り上がりがありません。そこで、創価学会会員のエネルギーを外部に向かって爆発させることで、より確実に創価学会としての票を固める効果があるのです。

私が高松にいたころ、「3日で高校時代の友人に片っ端から電話してFを300獲ってきた」と豪語する幹部がいました。当然ですが、そんな電話はただの迷惑電話であり、一人当たりの時間を考えても満足に政策を説明し、理解を得ることなど絶対にできません(ちなみにこの幹部は公明党の職員でもありました)。そんなことよりも「Fを300出した会員がいる」という話が、組織内の刺激となり、運動をさらに盛り上げていくのです。

徹頭徹尾、内部の論理

ここまでの話を読んで、創価学会の選挙運動の理屈に納得できる方はほとんどいないと思います。彼らの考えていることは、まじりっけなしの「内側の論理」であり、そのために日本全体にどういう影響を及ぼすか、また自分の数字のために投票依頼をされる他者がどういう気持ちになるのか、は全く思考の範囲外だからです。コロナ禍における運動は、創価学会会員の不誠実さをくっきりと映し出しています。

結果として、政治の素人である公明党議員も、政界で最大限利益を得るために「空気を読む」ことだけに特化することになり、プライドなく自民党、都民ファースト、大阪維新の会などの与党に政策を180度変えてすり寄ることができるのです。「すでに強きものをさらに強くする」だけの機能しかない公明党は、日本の民主主義を弱体化させ、政治を腐敗させる存在となっています。

創価学会が標榜する大乗仏教も、初代会長牧口常三郎が唱えた価値論も、自らの幸せだけを祈って幸せになることはできないと説きます。自分の直接縁する世界を超えた、大きな広がりの中にいるすべての人にとっての幸せとは何で、どうすればそれが得られるのか、自分でよく学び、考えろ、と教えます。創価学会の会員も、日蓮の「一身の安堵を思わば、まず四表の静謐を祈るべし」という一節をもって、だから政治活動をするのだとすりこまれますが、「四表の静謐を祈る」とはどういうことなのか、いま一度考え直していただきたいと思います。

日本の政治は、創価学会会員の功徳獲得のための道具ではありません。日本における「善き政治」の実現なくして、日本国民たる創価学会会員の繁栄もありません。牧口は、一宗が亡びることよりも、一国が亡ぶことを恐れました。「一宗栄えて国亡ぶ」という事態があり得るという意味です。日蓮も、自分の教団が日本を支配すれば、不思議の力で日本が守られる、とは考えていなかったはずです。